LOGIN入学して数日が経つと、ようやく教室の空気にも慣れてきた。
とはいえ「慣れた」というのは、危険がないと理解できたわけじゃない。 単に、危険がどこに潜んでいるかを身体が覚えただけだ。 教室の後ろの壁には、拳大にへこんだ跡が残っていた。 誰にも聞いていないが、聞く必要もなかった。 誰かが、何かの拍子に、そこへ拳を叩きつけたということだけは、傷そのものが雄弁に語っていた。担任も、それについては何も触れない。触れないという選択そのものが、この教室の力関係を物語っているようだった。
ヤンキーたちの視線をなるべく避けながら、それでも俺と同じように大学進学を目指すやつらが何人かいることが分かった。 俺は彼らを心の中で「勉強仲間」と呼び、自然と一緒に過ごす時間が増えていった。 勉強の話ももちろんする。 でも、話題の中心はいつだってひとつだった。――いかにしてヤンキーたちと関わらずに済むか。
いや、むしろそれが最重要テーマだったと言っていい。
触らぬ神に祟りなし。俺たちはただ静かに、そして目立たず、この三年間をやり過ごす……はずだった。まず最初に仲間となったのは、坂本巧。偶然にも彼の兄と俺は小学生の頃から趣味仲間で面識があった。
その縁もあって、坂本とは最初から妙に自然と距離が縮まった。「おう、高松。よろしくな」
初対面のはずなのに、すでに「知ってるやつ」みたいな温度で話しかけてくる。
その雑さが、逆にありがたかった。次に佐々木大輔。元気いっぱいでクラスのムードメーカー……と言えば聞こえはいいが、声が無駄にでかくてデリカシーが薄い。
本人は悪気がないのが厄介で、ヤンキーの神経を逆なですることが多い。俺たちにとっては常に地雷を抱えているようなものだった。 |鵜坂《うざか》博之は、この高校の目と鼻の先にある大久保中学の出身で、実家がこの周辺に多くの田畑を持っているらしい。 牧野宏は浦和駅から京浜東北線で北へ二駅の与野駅前で中華料理屋を営む家の息子。 雨宮さくらちゃんは坂本と同じ中学出身で、後に――まあ、それはまた先の話だ。 そして、小倉多江ちゃん。 多江ちゃんについては、のちほど詳しく説明する。なぜか俺は女子にだけ「ちゃん付け」で呼んでしまう癖がある。
多江ちゃんも、さくらちゃんも、それが自然に口から出た。 自分でも理由はよく分からない。 ただ、その呼び方をした瞬間、相手との距離がほんの少しだけ縮まる気がしていた。 いつしか彼らは、俺の席の周りに集まってお喋りするのが日常になっていた。 当初「友情? 無理、無理」と切り捨てていた俺の高校生活は、気づけば良い意味で裏切られていた。……ただし。
仲間が集まるという事実は、同時に「目立つ」というリスクを背負うことにもつながっていた。
ある日の数学の授業。先生が黒板を背に教室を見回し、声を上げた。「じゃあ、この問題を解ける奴いるか……? よし、高松、やってみろ!」
指名された瞬間、心臓が一瞬止まったかと思った。
――やめてくれ。頼むから。 反射的にそう思う自分がいた。 答えられるかどうかじゃない。 答えた後が怖い。 でも、ここで拒否したら余計に目立つ。 俺は腹を決めて立ち上がった。 進学塾で同じような問題はすでにやっていたから、正直、解くだけなら楽勝だった。 黒板に式を書いて、淡々と手順を並べる。 説明をするうちに、授業というより塾の空気に近くなっていき、俺の頭は少し落ち着いた。 解き終わったとき、先生の声が教室に響いた。「さすがだな、高松! 正解!」
その一言で胸の奥がじんわり温かくなる。
中学時代、教師に褒められることなんてほとんどなかった。 だから久々の高評価は、正直、かなり嬉しかった。――でも、その嬉しさは一瞬で終わる。
「おお、さっすがー!」
「勉強しかできねぇ男、登場!」 「いやーすげーな! できるやつは違うわ!」教室の後ろから、案の定ヤンキーたちのヤジが飛んできた。
しかもコーラス状態だ。 わざとらしく拍手までしてるやつがいる。 先生が「静かに!」と注意しても効果は薄い。 極めつけに、小さく切った消しゴムがいくつも、席に戻る俺の背中にコツン、コツンと当たった。……くそ。
歯を食いしばる。
相手は多数、こちらは孤立無援。 反論すれば火に油だ。だから、ただ耐える。 ……いや、俺だけじゃない。 俺が目立つと、仲間まで巻き込まれる。 結果的に“勉強組”というひとくくりで、俺たちはまとめてからかわれ枠になる。掃除当番のときもそうだった。
「俺たち頭悪いからよぉ、おうちで勉強しなきゃ付いてけねーんだ。後はよろしくな!」
そう言ってモップや雑巾を押し付け、さっさと帰ってしまう。
残された俺たちはため息をつきながら、黙々と掃除をこなす。 気づけば俺たちは、ヤンキーに支配される下位カーストのような立場へと押し込められていた。放課後、佐々木が青い顔で戻ってきたことがあった。
「ちょっと、ヤンキーに呼ばれて……」
結局、佐々木は何もされなかったらしい。
財布、体ともに無事だった。 だが、戻ってきた本人の顔から血の気が引いていたのは事実で、それを見た俺たちは誰も、軽口を叩けなかった。 何もされなかったという結果は、何かされる可能性があったという前提の上にしか成立しない。 そのことを、俺たちは骨身に染みて理解していた。入学して間もない頃、部活の先輩からこんな話を聞かされたことがある。
「去年、二年の連中に目つけられて、金取られた一年がいたらしいぞ。財布ごと」
真偽は分からない。
確かめる勇気もなかった。 ただ、その話を聞いてから、廊下ですれ違うヤンキーの足音ひとつにも、やけに敏感になった自分がいた。 入学当初、暴力やカツアゲはあったようだ。 だが、犯人は二年生のヤンキーで、少なくともこのクラスの連中は直接絡んでいない――それを後で知った。 また、二年生のヤンキーが起こしていたトラブルも、俺たちが入学してから次第に減っていったらしい。このクラスのヤンキーたちは、暴力や金銭の恐喝には手を出さない。
あくまで「からかい」レベル。……とはいえ、だから安心という話にはならない。
刺激すれば一気に、別の段階へ移る可能性はある。
だから俺は仲間に言い聞かせた。 『反応するな。相手にするな。面白がらせたら負けだ』 我慢比べみたいで情けない。 でも、こういう場所では理屈より先に、決められたルールがある。 そして、そのルールは、こちらが決められない。そんな俺たちの日常を、さらにややこしくしたのが――隣のクラスの『ヤンキー姉さん』。通称「なつさん」だ。
彼女が教室に顔を出すと、うちのクラスのヤンキーたちは一斉に立ち上がる。「なつさん! よろしくっす!」
「承知!」まるで軍隊の敬礼モード。
彼女は完全に序列の頂点に君臨していた。 そして不思議なことに、その「なつさん」が、ときどき俺の方をちらりと見てくる。 ……気のせいだろうか。 いや、そうに違いない。 そう思いたかった。 見られていると認めた瞬間、俺の三年間の設計図が崩れる気がしたからだ。ある日の昼休み。
なつさんがヤンキーたちと話しているとき、ふと視線が合った。 俺が慌てて逸らした、その瞬間。「おらぁ! 何ジロジロ見てんだよ! 文句あんのか!?」
怒声が飛んできた。
ズンズン近づいてきて、胸ぐらを掴まれる。「ガンつけてんじゃねぇぞ?」
心臓がバクバク鳴る。
背中に汗がにじむ。 周囲の仲間は青ざめ、目で「さっさと謝れ」と訴えてくる。 結局、俺は言われるままに頭を下げた。 悔しい。情けない。 でも、ここで意地を張っても、勝てるわけがない。……ただ、不思議なことに。
なつさんはそれ以上、手を出してこなかった。 殴らない。蹴らない。 脅すだけ脅して、情報を引き出すと、それで終わり。……なんだ、この人は。
怖いのは確かだった。
でも、単なる乱暴者とは違う気がした。 俺は、ひとつ仮説を立てた。 彼女は「暴れたい」んじゃない。 彼女なりの秩序で、場を支配している――そういうタイプなんじゃないか、と。実際、二年のヤンキーが起こしたトラブルで浦和中央工業高校のバイク連中が乱入してきたときも、なつさんは一人で相手に歩み寄り、言葉だけで退かせたらしい。
横山たちが二年と揉めたときも、烈火のごとく怒りながら止めさせていたという。 拳じゃなく、別の方法で秩序を守ろうとしている。 そんな気がしてならなかった。だからこそ、俺は――仲間の前に立つこととした。
中学時代、いじめられて孤立し、それでも何度も言い争いをしてきた経験がある。 殴り合いだけは、一度もしなかったが。 俺は知っている。 ここで怯えて下を向けば、仲間はもっと追い詰められる。 なつさんに胸ぐらを掴まれながらも、俺は心のどこかで思っていた。 この人は、俺を殴らない――俺は心のどこかでそう思っていた。 信じているというより、信じたいという気持ちだった。 怖い。 けれど同時に、どこかで――守ってくれているようにも思えた。矛盾してる。
だけど、その矛盾が、なつさんという存在の輪郭をはっきりさせていく。 ……俺は、防波堤になる。 勉強仲間を守るために。 そして、彼女が作ろうとしている秩序というものに、少しだけ賭けてみたいと思った。彼女の目が、じわじわとこちらを射抜いてくる。 あの視線には「はい」以外の選択肢は存在しない――そう言い切られているようだった。 教室の空気は重たく沈み込み、俺の喉は砂漠みたいにカラカラになる。 息をするたび肺がぎしぎし鳴りそうで、舌先すら思うように動かない。 このまま黙っていたら、間違いなく彼女の「圧」に押し潰される。 ……だからこそ。 俺は心の中で深く息を吸い込み、ほんのわずかに視線を上げた。「……わかりました。ただ……」 わざと間を置く。 これは譲歩じゃない。 条件を提示するための布石だ。 どんなに相手が強くても、こちらが完全に呑まれたら終わりになる。 俺の立場は一方的に不利になり、彼女の都合に振り回されるだけだ。 窓の外からは、昼休みを楽しむ生徒たちの笑い声が聞こえる。 サッカー部がグラウンドでボールを蹴る音も混じっている。 けれど、この教室だけは別世界だった。 俺と彼女だけの、閉ざされた空気が漂っている。「普通に嫌なんですけど」 つい、本音が口をついて出る。「あー!? 俺に歯向かうのか?」 次の瞬間、胸ぐらをつかまれた。 しかも手加減なし。 肺の奥から息が押し出されるような力だった。 逆らえば、後々もっと面倒になる。 そう直感した瞬間、俺の脳は反射的にフル回転を始める。 もし教えることを了承したとして……彼女は素直に勉強してくれるのか? ――するなら、成績を上げる手段を考える。 ――しないなら、目的は果たせず、むしろトラブルが増える。 さらに、教えても成績が上がらなかったら……。 ――上がれば継続。 ――上がらなければ、俺が責められる。 いやいや、責められるって何だ。 ……命が危ないは言い過ぎだろう、と自分で突っ込みつつも、ヤンキー姉さんの圧を思えば、その想像すら笑えなかった。 ……こういうときは「行動する前に、今なにをすべきか考える」。 中学時代の失敗から学んだ、俺なりの鉄則だ。 状況を整理する。 一、逃げ道はない。了承するしかない。 二、了承した 以上、彼女が納得するだけの結果が必要。 三、問題が出たら、その時点で対策を考える。 結論――要求を受け
俺の名前を呼んだのは、ヤンキーたちが「なつさん」と呼んでいる、隣のクラスのヤンキー姉さんだった。 身長は俺より少し低いくらい。 たぶん百七十センチ前後だろう。 視線が合った瞬間、背筋がビクリと跳ねたが、緊張のせいで顔の細部までは認識できなかった。 代わりに視線を落とすと、ひざ下まであるロングスカートと、入学からまだ三か月だというのに完全に潰れ切った上履きの踵が目に入る。 形を成していないそれは、まさに「ヤンキーアイテム」としての存在感を放っていた。 彼女が俺の名を呼んだ瞬間、勉強仲間は全員、反射的に俺から距離を取った。 パッと見ただけで分かる、完全なる「関わりません」のポーズ。 まるでパブロフの犬だ。 条件反射にもほどがあるだろ。 気がつけば俺だけが取り残され、彼女がこちらへ迫ってくるのを待つ形になっていた。 パタパタと上履きを鳴らし、肩を左右に揺らして歩いてくる。 笑顔を浮かべているのに、それが逆に恐怖を増幅させる。 教室全体の空気が、一気に重くなった。 中学時代、男子ヤンキーと口論になったことはあったが、女子ヤンキーと正面から対峙するのは慣れていない。 いつの間にか、背中は汗でじっとりと濡れている。「おまえが高松和也か」 俺のすぐ後ろに立った彼女が、低い声で確認する。 俺は後ろを向いて答えた。「そ、そうですけど(いや、知ってるくせにその確認必要?)」「ちょっと顔貸してくんねぇ」「……なんでしょうか」 彼女は周囲を一瞥し、さらに声を落とす。「ここじゃ面倒くせぇから、ちょっと来いや」「いや……嫌なんですけど」「来いって言ってんだよ!」 胸ぐらをつかまれ、至近距離で怒鳴られた瞬間、教室は水を打ったように静まり返った。 誰一人口を開かない。 咳払いすら聞こえない。 たぶん、誰もが息をする音すら殺していた。 俺は知っている。 こういう場面で逆らえば、尾ひれがついて噂になり、話は思わぬ方向へ転がる。 中学で何度も痛い目にあった経験が、ここは従った方がいいと告げていた。「……了解です」 しぶしぶ立ち上がると、椅子を引く音だけがやけに響く。 彼女はうなずき、出口へ向かった。俺も仕方なく後を追う。 途中、多江ちゃんと目が合った。 俺が「大丈夫だ」と目配せすると、多江ちゃんは小さくうなずき、ほかの仲間たち
俺たちが通っていた進学塾『浦和ゼミナール』は、県内でも最大規模を誇る現役高校生用の塾だった。 入口のガラス扉には、いつも新しいチラシが貼られている。 そこには毎年のように「東大○名、早慶○名」と、やたら景気のいい数字がでかでかと踊っていた。 まるで夢の切符を配っているみたいに。 ……もっとも、その「夢の切符」を本当に受け取れるのは、県立浦和や一女、大宮、市立浦和みたいな、県内でも屈指の進学校の生徒たちだ。 つまり俺たちみたいなその他大勢がどれだけもがいたところで、結局はそれなりの大学に落ち着く。 そういうものだ――と、俺はずっと思い込んでいた。 ただ一人、例外がいる。 勉強仲間の中で唯一、進学校出身の小倉多江ちゃん。 彼女だけは、俺たちの中で別格の存在だった。 俺の高校生活の目標は単純だ。 名の知れた大学に引っかかれば御の字。 それに加えて、自分のやりたいことを学べる学科があれば言うことなし。 当時、うちの高校の名前を出すと、決まって「大鳳? ああ、あの田んぼの中の」と返された。それが世間の大鳳高校の扱いだった。 根拠のない偏見だと頭では分かっているのに、そういう言葉に俺たちは簡単に一喜一憂してしまう。 大学に進んだら、趣味と勉強を両立して、いずれは家業を継ぐんだろう……そんな未来を、ぼんやり思い描いていた。 結論から言えば、まったく違う人生になったわけだけど。 さて、『浦和ゼミナール』から二軒隣に『バーガークイーン』というハンバーガーショップがあった。 俺たちの定番の溜まり場である。 授業が終わるのは夜の九時ごろ。街の空気が冷えてきて、店のガラス窓が外気で少し白く曇る時間帯だ。 店内は脂とコーヒーの匂いが混じっていて、妙に落ち着く。 騒がしいはずなのに、ここにいると「学校の息苦しさ」が一枚、剥がれる感じがした。「ねぇ、かずくん。さっきの化学の問題なんだけど、ここがどうしても分かんなくて」 多江ちゃんは、塾で配布されたプリントを広げて俺の前に置く。 インクの匂いがまだ新しい。 その指先が、ほんの少し震えている。 たぶん寒さのせい……と言いたいけど、違う。 多江ちゃんは、こういうときだけ妙に真剣で、肩に力が入る。 分からないところを「分からない」と言うのが、彼女にとっては簡単じゃないのだと、俺は知っている。
毎日がこんな調子なら、そりゃあ心も擦り切れる。 クラスでの俺の立ち位置は、いわば防波堤だ。 ヤンキーの冷やかしや無茶ぶりを真正面で受け止め、仲間を守る壁。 ……なんて格好いい言い方をすれば多少は気が晴れるけど、実際はただのサンドバッグでしかない。 笑って流す。黙って耐える。やり過ごす。 その繰り返しで、気づけば一日が終わっている。心が削れていく音が、自分にだけ聞こえる気がした。 だから俺は、一刻も早く学校から離れたかった。 終業のチャイムが鳴った瞬間、誰よりも速く廊下を抜け、玄関からバス停へ一直線――そうしたいのに、結局バス停では発車まで待ち時間がある。 その待ち時間が、地味にきつい。 誰かと鉢合わせるかもしれない。 目が合うかもしれない。声をかけられるかもしれない。 「かもしれない」だけで胃が縮む。 ……つまり全力で逃げても、ゴールは地獄、みたいなオチが待っているわけだ。 そこで俺は親に頼んで、自転車を買ってもらった。 「勉強も大事だし、塾にも通うから」 そう説明すれば、親も納得してくれた。 実際、その理由は嘘じゃない。 高校に入ってから週三で通い始めた進学塾が、南浦和駅の近くにあったからだ。 浦和駅前はオフィス街で、塾が少ない。 南浦和のほうが学生向けの進学塾が充実している。 バスだと浦和駅でいったん降りて乗り換え――それを考えると、駅近くの駐輪場に止められる自転車のほうが、ずっと現実的だった。 自転車通学を始めると、勉強仲間も次々に真似してきた。「かず、バスはやっぱ危険地帯だよな」「だろ? こっちの方が安全だし、自由だし」 そう言って俺たちは揃ってペダルをこぎ、放課後は一緒に塾へ向かうようになった。 片道数十分の距離が、ヤンキーとの鉢合わせに怯える恐怖と比べれば天国みたいに感じたのだから、我ながら単純だ。 後に晏菜から聞いた話だが、浦和大鳳高校は入試の得点分布がきれいな二極性を描いていたらしい。 成績の良い層と悪い層が、見事に割れている――という意味だ。 晏菜の情報網の広さは相変わらず謎だけど、聞いて納得だった。 確かに、俺たち勉強組とヤンキー軍団の学力差は天と地ほどある。 校内の空気で言えば、トップは当然ヤンキーで、次が部活で青春を謳歌する『中間層』。 井上さんなんかは完全にそっちのグループだ
入学して数日が経つと、ようやく教室の空気にも慣れてきた。 とはいえ「慣れた」というのは、危険がないと理解できたわけじゃない。 単に、危険がどこに潜んでいるかを身体が覚えただけだ。 教室の後ろの壁には、拳大にへこんだ跡が残っていた。 誰にも聞いていないが、聞く必要もなかった。 誰かが、何かの拍子に、そこへ拳を叩きつけたということだけは、傷そのものが雄弁に語っていた。 担任も、それについては何も触れない。触れないという選択そのものが、この教室の力関係を物語っているようだった。 ヤンキーたちの視線をなるべく避けながら、それでも俺と同じように大学進学を目指すやつらが何人かいることが分かった。 俺は彼らを心の中で「勉強仲間」と呼び、自然と一緒に過ごす時間が増えていった。 勉強の話ももちろんする。 でも、話題の中心はいつだってひとつだった。 ――いかにしてヤンキーたちと関わらずに済むか。 いや、むしろそれが最重要テーマだったと言っていい。 触らぬ神に祟りなし。俺たちはただ静かに、そして目立たず、この三年間をやり過ごす……はずだった。 まず最初に仲間となったのは、坂本巧。偶然にも彼の兄と俺は小学生の頃から趣味仲間で面識があった。 その縁もあって、坂本とは最初から妙に自然と距離が縮まった。「おう、高松。よろしくな」 初対面のはずなのに、すでに「知ってるやつ」みたいな温度で話しかけてくる。 その雑さが、逆にありがたかった。 次に佐々木大輔。元気いっぱいでクラスのムードメーカー……と言えば聞こえはいいが、声が無駄にでかくてデリカシーが薄い。 本人は悪気がないのが厄介で、ヤンキーの神経を逆なですることが多い。俺たちにとっては常に地雷を抱えているようなものだった。 |鵜坂《うざか》博之は、この高校の目と鼻の先にある大久保中学の出身で、実家がこの周辺に多くの田畑を持っているらしい。 牧野宏は浦和駅から京浜東北線で北へ二駅の与野駅前で中華料理屋を営む家の息子。 雨宮さくらちゃんは坂本と同じ中学出身で、後に――まあ、それはまた先の話だ。 そして、小倉多江ちゃん。 多江ちゃんについては、のちほど詳しく説明する。 なぜか俺は女子にだけ「ちゃん付け」で呼んでしまう癖がある。 多江ちゃんも、さくらちゃんも、それが自然に口から出た。 自分でも理由
◇◇ 入学式当日 ◇◇ 決意も新たに、俺は鏡の前で頬を二、三発、軽く叩いた。 痛みというより「音」でスイッチを入れる感じだ。(よし。今日からだ) 登校の準備はできている。制服も、鞄も、書類も、靴も。 あとは母が部屋から戻ってくるのを待つだけ――のはずなのに、やけに落ち着かない。胸の奥がそわそわして、手持ち無沙汰で机の端を指でなぞってしまう。 俺は、人生をリセットするためにここに来た。 中学時代の“闇”を引きずらず、誰にも知られず、ただ静かに三年間を走り切る。 目立たず、揉めず、勉強して、大学へ行く。 そのための高校生活の始まりが、今日だ。 母が戻ってくると、俺たちは一緒に家を出た。 最寄りのバス停までは徒歩で数分。通学そのものは、たぶん不便じゃない。たぶん――。 俺と母は、バスが混むのが嫌だった。できれば座りたい。 だから少し早めに家を出て、『大久保浄水場』行きのバスに乗り込んだ。 大久保浄水場といえば、荒川の水を飲み水として市内に供給する場所で、小学校の遠足で見学したことがある。巨大な設備と、消毒薬みたいな匂いだけが妙に記憶に残っている。 そんなことを思い出すあたり、俺はやっぱり緊張していたのだろう。 バスに乗ると、俺と母は別々の席に座った。 時間が早いとはいえ、車内にはそれなりに人がいて、並んで座れる空席がない。 俺は窓側の席に腰を下ろし、窓枠に頬杖をついて外を眺めた。 十数分もすると、車窓の景色は都会から田園風景に変わっていく。建物の密度が薄くなり、空が広がり、畑が増える。荒川沿いの風のせいか、木々がどれも同じ方向に少しだけ傾いて見えた。 ――俺は、たぶん車内の景色をちゃんと見ていなかった。 緊張と興奮で、視界は外に向いているのに頭の中は別のことばかり考えていた。 このバスに、同級生になる人間が何人乗っていたのか、まったく覚えていない。 『大鳳高校前』で降りると、通学路は桜並木になっていた。 花が散り終わり、緑色の葉桜に染まった枝が風に揺れている。春はちゃんと進んでいるのに、俺だけがその流れに置いていかれそうで、ほんの一瞬、胸がざわついた。 校門をくぐり、校内の掲示板を見る。 そこには、各クラスの担任名と所属生徒の氏名がずらりと書かれていた。 一組、担任は渋谷先生。 一組という響きだけで、なぜか「幸先







