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第0章 夏村さんは最凶です(4)

last update publish date: 2026-11-04 18:51:58

 入学して数日が経つと、ようやく教室の空気にも慣れてきた。

 とはいえ「慣れた」というのは、危険がないと理解できたわけじゃない。

 単に、危険がどこに潜んでいるかを身体が覚えただけだ。

 教室の後ろの壁には、拳大にへこんだ跡が残っていた。

 誰にも聞いていないが、聞く必要もなかった。

 誰かが、何かの拍子に、そこへ拳を叩きつけたということだけは、傷そのものが雄弁に語っていた。

 担任も、それについては何も触れない。触れないという選択そのものが、この教室の力関係を物語っているようだった。

 ヤンキーたちの視線をなるべく避けながら、それでも俺と同じように大学進学を目指すやつらが何人かいることが分かった。

 俺は彼らを心の中で「勉強仲間」と呼び、自然と一緒に過ごす時間が増えていった。

 勉強の話ももちろんする。

 でも、話題の中心はいつだってひとつだった。

 ――いかにしてヤンキーたちと関わらずに済むか。

 いや、むしろそれが最重要テーマだったと言っていい。

 触らぬ神に祟りなし。俺たちはただ静かに、そして目立たず、この三年間をやり過ごす……はずだった。

 まず最初に仲間となったのは、坂本巧。偶然にも彼の兄と俺は小学生の頃から趣味仲間で面識があった。

 その縁もあって、坂本とは最初から妙に自然と距離が縮まった。

「おう、高松。よろしくな」

 初対面のはずなのに、すでに「知ってるやつ」みたいな温度で話しかけてくる。

 その雑さが、逆にありがたかった。

 次に佐々木大輔。元気いっぱいでクラスのムードメーカー……と言えば聞こえはいいが、声が無駄にでかくてデリカシーが薄い。

 本人は悪気がないのが厄介で、ヤンキーの神経を逆なですることが多い。俺たちにとっては常に地雷を抱えているようなものだった。

 |鵜坂《うざか》博之は、この高校の目と鼻の先にある大久保中学の出身で、実家がこの周辺に多くの田畑を持っているらしい。

 牧野宏は浦和駅から京浜東北線で北へ二駅の与野駅前で中華料理屋を営む家の息子。

 雨宮さくらちゃんは坂本と同じ中学出身で、後に――まあ、それはまた先の話だ。

 そして、小倉多江ちゃん。

 多江ちゃんについては、のちほど詳しく説明する。

 なぜか俺は女子にだけ「ちゃん付け」で呼んでしまう癖がある。

 多江ちゃんも、さくらちゃんも、それが自然に口から出た。

 自分でも理由はよく分からない。

 ただ、その呼び方をした瞬間、相手との距離がほんの少しだけ縮まる気がしていた。

 いつしか彼らは、俺の席の周りに集まってお喋りするのが日常になっていた。

 当初「友情? 無理、無理」と切り捨てていた俺の高校生活は、気づけば良い意味で裏切られていた。

 ……ただし。

 仲間が集まるという事実は、同時に「目立つ」というリスクを背負うことにもつながっていた。

 ある日の数学の授業。先生が黒板を背に教室を見回し、声を上げた。

「じゃあ、この問題を解ける奴いるか……? よし、高松、やってみろ!」

 指名された瞬間、心臓が一瞬止まったかと思った。

 ――やめてくれ。頼むから。

 反射的にそう思う自分がいた。

 答えられるかどうかじゃない。

 答えた後が怖い。

 でも、ここで拒否したら余計に目立つ。

 俺は腹を決めて立ち上がった。

 進学塾で同じような問題はすでにやっていたから、正直、解くだけなら楽勝だった。

 黒板に式を書いて、淡々と手順を並べる。

 説明をするうちに、授業というより塾の空気に近くなっていき、俺の頭は少し落ち着いた。

 解き終わったとき、先生の声が教室に響いた。

「さすがだな、高松! 正解!」

 その一言で胸の奥がじんわり温かくなる。

 中学時代、教師に褒められることなんてほとんどなかった。

 だから久々の高評価は、正直、かなり嬉しかった。

 ――でも、その嬉しさは一瞬で終わる。

「おお、さっすがー!」

「勉強しかできねぇ男、登場!」

「いやーすげーな! できるやつは違うわ!」

 教室の後ろから、案の定ヤンキーたちのヤジが飛んできた。

 しかもコーラス状態だ。

 わざとらしく拍手までしてるやつがいる。

 先生が「静かに!」と注意しても効果は薄い。

 極めつけに、小さく切った消しゴムがいくつも、席に戻る俺の背中にコツン、コツンと当たった。

 ……くそ。

 歯を食いしばる。

 相手は多数、こちらは孤立無援。

 反論すれば火に油だ。だから、ただ耐える。

 ……いや、俺だけじゃない。

 俺が目立つと、仲間まで巻き込まれる。

 結果的に“勉強組”というひとくくりで、俺たちはまとめてからかわれ枠になる。

 掃除当番のときもそうだった。

「俺たち頭悪いからよぉ、おうちで勉強しなきゃ付いてけねーんだ。後はよろしくな!」

 そう言ってモップや雑巾を押し付け、さっさと帰ってしまう。

 残された俺たちはため息をつきながら、黙々と掃除をこなす。

 気づけば俺たちは、ヤンキーに支配される下位カーストのような立場へと押し込められていた。

 放課後、佐々木が青い顔で戻ってきたことがあった。

「ちょっと、ヤンキーに呼ばれて……」

 結局、佐々木は何もされなかったらしい。

 財布、体ともに無事だった。

 だが、戻ってきた本人の顔から血の気が引いていたのは事実で、それを見た俺たちは誰も、軽口を叩けなかった。

 何もされなかったという結果は、何かされる可能性があったという前提の上にしか成立しない。

 そのことを、俺たちは骨身に染みて理解していた。

 入学して間もない頃、部活の先輩からこんな話を聞かされたことがある。

「去年、二年の連中に目つけられて、金取られた一年がいたらしいぞ。財布ごと」

 真偽は分からない。

 確かめる勇気もなかった。

 ただ、その話を聞いてから、廊下ですれ違うヤンキーの足音ひとつにも、やけに敏感になった自分がいた。

 入学当初、暴力やカツアゲはあったようだ。

 だが、犯人は二年生のヤンキーで、少なくともこのクラスの連中は直接絡んでいない――それを後で知った。

 また、二年生のヤンキーが起こしていたトラブルも、俺たちが入学してから次第に減っていったらしい。

 このクラスのヤンキーたちは、暴力や金銭の恐喝には手を出さない。

 あくまで「からかい」レベル。

 ……とはいえ、だから安心という話にはならない。

 刺激すれば一気に、別の段階へ移る可能性はある。

 だから俺は仲間に言い聞かせた。

 『反応するな。相手にするな。面白がらせたら負けだ』

 我慢比べみたいで情けない。

 でも、こういう場所では理屈より先に、決められたルールがある。

 そして、そのルールは、こちらが決められない。

 そんな俺たちの日常を、さらにややこしくしたのが――隣のクラスの『ヤンキー姉さん』。通称「なつさん」だ。

 彼女が教室に顔を出すと、うちのクラスのヤンキーたちは一斉に立ち上がる。

「なつさん! よろしくっす!」

「承知!」

 まるで軍隊の敬礼モード。

 彼女は完全に序列の頂点に君臨していた。

 そして不思議なことに、その「なつさん」が、ときどき俺の方をちらりと見てくる。

 ……気のせいだろうか。

 いや、そうに違いない。

 そう思いたかった。

 見られていると認めた瞬間、俺の三年間の設計図が崩れる気がしたからだ。

 ある日の昼休み。

 なつさんがヤンキーたちと話しているとき、ふと視線が合った。

 俺が慌てて逸らした、その瞬間。

「おらぁ! 何ジロジロ見てんだよ! 文句あんのか!?」

 怒声が飛んできた。

 ズンズン近づいてきて、胸ぐらを掴まれる。

「ガンつけてんじゃねぇぞ?」

 心臓がバクバク鳴る。

 背中に汗がにじむ。

 周囲の仲間は青ざめ、目で「さっさと謝れ」と訴えてくる。

 結局、俺は言われるままに頭を下げた。

 悔しい。情けない。

 でも、ここで意地を張っても、勝てるわけがない。

 ……ただ、不思議なことに。

 なつさんはそれ以上、手を出してこなかった。

 殴らない。蹴らない。

 脅すだけ脅して、情報を引き出すと、それで終わり。

 ……なんだ、この人は。

 怖いのは確かだった。

 でも、単なる乱暴者とは違う気がした。

 俺は、ひとつ仮説を立てた。

 彼女は「暴れたい」んじゃない。

 彼女なりの秩序で、場を支配している――そういうタイプなんじゃないか、と。

 実際、二年のヤンキーが起こしたトラブルで浦和中央工業高校のバイク連中が乱入してきたときも、なつさんは一人で相手に歩み寄り、言葉だけで退かせたらしい。

 横山たちが二年と揉めたときも、烈火のごとく怒りながら止めさせていたという。

 拳じゃなく、別の方法で秩序を守ろうとしている。

 そんな気がしてならなかった。

 だからこそ、俺は――仲間の前に立つこととした。

 中学時代、いじめられて孤立し、それでも何度も言い争いをしてきた経験がある。

 殴り合いだけは、一度もしなかったが。

 俺は知っている。

 ここで怯えて下を向けば、仲間はもっと追い詰められる。

 なつさんに胸ぐらを掴まれながらも、俺は心のどこかで思っていた。

 この人は、俺を殴らない――俺は心のどこかでそう思っていた。

 信じているというより、信じたいという気持ちだった。

 怖い。

 けれど同時に、どこかで――守ってくれているようにも思えた。

 矛盾してる。

 だけど、その矛盾が、なつさんという存在の輪郭をはっきりさせていく。

 ……俺は、防波堤になる。

 勉強仲間を守るために。

 そして、彼女が作ろうとしている秩序というものに、少しだけ賭けてみたいと思った。

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